続・丹波山金山 付帯遺跡マルケバ / まるきば 調査

今年は丹波山金山について調べて実際に足を運んでみました。

丹波山金山 源太川遺跡 – 丹波山村 グリーンロード
丹波山金山 不動滝遺跡 – 丹波山村 グリーンロード
丹波山金山 舟越金山(机上調査)
丹波山金山 付帯遺跡マルケバ / まるきば 散策 (2020.08.16)


源太川遺跡 , 不動滝遺跡は、現地に案内板も設置されている、誰でも気軽に見学ができる芝金遺跡です。両遺跡を通るようにグリーンロードが整備されていますから楽に訪れる事ができます。

一方、山金遺跡である舟越金山遺跡へは整備された道がなく、またはっきりとした場所も最初は不明でした (参考: 丹波山金山 舟越金山(机上調査))

かろうじて見つけられた1冊の雑誌(山梨県史研究 10号)に載っていた荻原氏の記事を参考に、マルケバ跡地と思われる山中にある不自然な平地を訪れました。
(参考: 丹波山金山 付帯遺跡マルケバ / まるきば 散策 (2020.08.16))

その後、Garimpo氏から「2005年に湯之奥金山博物館の遺跡見学会で訪れた事がある」とコメントを頂きました。

金山博物館に資料が残っているハズとの事でしたので、さっそく問い合わせしてみると、学芸員の小松氏から過去資料を閲覧させてもらえる旨のお返事を頂きました!近々、身延へ出かける用事がありそうなので、その時に見せていただく予定です。

国会図書館へ

先日、月一回の出勤日でオフィスへ出勤しました。特に何もトラブルが無ければ、昼頃には上がれます。これは国会図書館へ寄るチャンス 🙂

オフィスから国会図書館まで、電車を利用して19分、徒歩で24分。どちらもあまり所要時間が変わりません。

それならば、すっかり秋めいてきた中、ゆっくり銀杏並木を散歩しながら徒歩で向かうことにしました。首相交代の影響でしょうか、国会議事堂付近はなんだか慌ただしい雰囲気です。ぼくの服装が永田町の雰囲気とはマッチしないためか、警察官の視線を感じます(笑

国会図書館に到着!

今回の目的は、「武田氏研究 – 第27号-」に載っている「丹波山金山遺跡第一次学術調査概報」を読む事。どんな内容なのか?期待しながら、閲覧申請を提出し資料がカウンターに届くのを待ちます。

昔は、待ち時間を喫煙室で過ごしていましたが、喫煙室が閉鎖されてからは待っている時間が手持ち無沙汰でいけませんね・・・

武田氏研究 – 第27号-

目的のページを開いた瞬間、来て良かった!と感じました。今まで見た中で一番詳しい資料です。

舟越金山遺跡の位置

武田氏研究27号 P.23より

武田氏研究27号 P.25より

今まで曖昧だった、舟越金山遺跡の位置がはっきりと示されています。なんと言うことでしょう。ぼくが歩いたちょうどその場所が舟越金山だったのです。

入山ルート

更に、入山ルートが予想していたムジナ沢の仕事道からではなく、サカサ沢ルートで入山したと書かれているではありませんか。それは、ぼくが下山したルートです。

武田氏研究27号 P.27より

その他調査結果

さすが学術調査団の報告書です。トレンチを掘り遺物(石臼を含む)を収集物リストと詳細なスケッチが掲載されています。発見された石臼の形状から江戸時代初期に鉱業されていたと結論づけられています。

更に、金山遺跡出土資料のX線元素分析結果もあります。ぼくには詳しい事はよく分かりませんが、微量のヒ素が検出されていていました。やはり国師岳や鈴庫鉱山付近と同じような地質なのですね。

舟越金山の南部、サカリ山には徳和型花崗閃緑岩の径2Kmほどの岩体があって、このサカリ山から小室川にかけては未発見の含金石英脈が分布している可能性もある。舟越金山の鉱石採掘域の本体は、サカリ山周辺にあるかもしれない。

武田氏研究27号 P.27より

これはぼくも机上での考察で気づきました(地質図を読めば誰でも考える事だとは思いますが)。

つまり、まだ未発見の金山遺跡が深い山中に埋もれている可能性を示しています。というか、ますます貝沢とマリコ沢が気になります。

資料を読み終わって

8月に現地へ行く前にこの資料を読めていたら…と残念でなりません。詳細な資料を元に金山遺跡を歩きまわれば、きっとより探索を楽しめたはず。

入山ルートはわかっているので、下草の枯れた頃、もう一度入山してじっくり観察してきたいと思っています!

砂金はあるのか?

気になる砂金ですが、ムジナ沢はやはり砂金が採れそうな気がします。現在は、既に新しい供給が無くなっているとしても、落ち込み、深みには古い金があるかもしれません。来年、気温と水温が上がった頃に沢装備で入渓できたらいいなぁ。

ところで・・・

二〇〇三年度夏に予定する二次調査では、さらに広く村民・県民・各大学・鉱山史研究者の理解と調査参加をお願いしたい。

P.50の「まとめと課題」の最期にこんな一文があるのです。第二次調査は行われたのかしら?そして、調査報告書はどこにあるのでしょうか。

また新しい資料が見つかったら、blogで報告したいと思います。

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