先日、妻の実家へお邪魔した時に何気なく倉庫部屋の本棚を眺めていたら「奥多摩/大菩薩嶺」の古い登山地図を見つけました。
1959年(昭和34年発行)で、価格80円と書かれています。
60年くらい前の地図です。今は既に廃道となってしまった道が載っているかもしれない!とドキドキしながら地図を開きます。
現在の登山地図は、濡れても破れにくいように特殊な紙に印刷されていますが、今から60年以上前では防水加工はなされていません。少し厚手の紙を使い破れにくくなっているのかもしれませんが、普通の上質紙で破れかけています。茶色い染みは、おそらく折り目保護の為に義父が貼ったと思われるセロハンテープの跡です。
じっくりと丹波山村周辺を見てみる
義父は大学時代、山岳部に所属していたそうで、以前から山の話を興味深く聞いたりしていました。しかし、専ら北アルプスなどが専門で近場の低山にはあまり興味が無いと思っていました。
そんなこともあり、昔の丹波山村や大菩薩周辺の話は聞いたことがありませんでした。しかし、この地図を見ると1959年に後山林道経由で雲取山へ登ったようです。このルートだと三条の湯に泊まったのかな。
さて、雲取の話は置いといて丹波山近辺に目を移すと違和感を感じると思います。
奥多摩方面から伸びる国道411号線が郵便局付近で途切れています。この時(昭和34年)は、今の国道411号線は完成していなかったのですね。
丹波山村は山梨県よりも東京と結びつきが強い土地だったというのも、この道を見れば納得です。
他には、丹波山村と小菅村をつなぐ、現在は舗装された峠道が車道として描かれていません。生活道路としての峠越え道だったのでしょう。
では、反対側の柳沢峠からくる道はどうなっているのか?
落合まで道ができているのが確認できます。もちろん林道一ノ瀬線はまだ開通しておらず(作られてもいない)一之瀬、二ノ瀬、三ノ瀬から外へ通じる道は、犬切峠越えの峠道のみという事も確認できます。
この当時の暮らしぶりは、瓜生卓造の「多摩源流を行く」に詳しいです。この辺りに興味がある方には楽しめると思います。
ちなみに、この地図が発行された昭和34年は、丹波山村の人口が最も多かった年だそうです。(P.84より)
丹波山村中心部から西へ
国道411号線が村役場付近で途切れていたら、その先はどうなっているのだろう?と気になります。その先へは、登山道として地図に載っているのでその道が通る場所を見ていきます。
この道は明治時代に整備された旧青梅街道です。文豪芥川龍之介が明治41年に通ったのもこの道だと思われます。
「二十六日 晴 丹波山から落合迄三里の間は殆ど人跡をたった山の中で 人家を素より一軒もない
(中略)
獨りこの林の奥の落ち葉をふみて 凩(こがらし)の聲に耳を澄ましたなら 定めて心地よい事であろう。こんなことを考えながら 落合の荒村を過ぎて 柳澤峠から 塩山の町についたのは もう暮方であった。」
(まちミューガイドブック 北都留郡丹波山村編 P.4,5より引用)
郵便局から奥秋の「子の神社」前を通り、丹波川左岸に伸びています。その先、余慶橋を渡り右岸ギリギリを羽根戸橋で左岸へ渡るまで進みます。この辺りまでは、現在のR411とほぼ同じ所を通っているのが分かります。
現在は羽根戸トンネルが開通し小さな尾根の下を通過していますが、羽根戸トンネル脇にはR411の旧道が残っていて、徒歩でなら通過可能です。以前に歩いたときはスズメバチの巣があって驚かされました。行かれる方はお気を付けて。
船越橋を渡った後、現在は大常木橋で再び左岸へ渡ります。
しかし昭和34年に大常木橋は存在しないので、右岸をそのまま西進していきます。この道はネットで「黒川通り」と検索すると出てくる旧青梅街道ですね。
今も路盤が残っていて、明治時代に作られた石垣を見る事ができます。この場所は、去年の8月に丹波山金山 舟越金山(机上調査)として訪れました。昔は丹波山村の中心部分から西へ抜ける主要道路だったようです。路盤崩落が何カ所があるそうですが、一度通して歩いてみたくなります。
その先は三条新橋で泉水谷を渡り、黒川谷を越え、丹波川右岸を進み、藤尾橋で左岸へ。その後、落合へ至ります。
黒川谷沿いを遡行し黒川鶏冠山へ通ずる道も描かれています。しかし黒川金山の文字は見当たりません。あの辺りへ行けば一面にテラスが広がっているので、知っている人は知っているが、一般的には認知されていないという状況だったのかもしれません。
泉水谷沿いに南下する登山道
三条新橋の脇から泉水谷の右岸を遡行する登山道が「破線」で描かれています。現在の地形図や登山地図にこの道は載っていませんが、2020年の夏に丹波山金山(マルケバ)を探索した時に通った水源巡視道です。
そのまま南下すると大黒茂谷を越えた辺りで泉水横手山林道にぶつかっています。
牛首谷に「泉水小屋」のアイコン(上写真の左隅)が描かれています。1350m付近なので、これは「泉水谷小屋」の事だと思います。ここには、明治後期に炭焼き仕事をする人々の集落があったそう。この小屋は、炭焼き夫の子供が通った学校跡だとかなんとか。
こんな山奥に50世帯もの集落があったとは信じにくいですが、実際、交通の便が悪く焼いた炭を売るのも重労働で豪雨災害の発生も後押しし、大半の人々が故郷へ帰ってしまったそう。
泉水谷では水晶が採れたそうですが、砂金が採れたという話はあまり聞きません。砂金が無くても、一度泉水谷小屋があった広場を訪れてみたいものです。
(瓜生卓造「多摩源流を行く」P.191より引用)
龍喰、大常木付近を見てみる
今でこそ林道一ノ瀬線が開通し、楽にアプローチできる両渓谷ですが、この当時の地図を眺めると交通空白地帯で、秘境中の秘境と呼ばれていた事に疑問を挟む余地はありません。
柳沢川と一之瀬川出合い付近から北上する道は見当たらず、どこから入れば良いのか途方に暮れそうです。とはいっても、仕事道はいくつも通っていたと思われます。
藤尾橋付近から藤尾山をトラバースし大常木谷方面へ抜ける廃道を見たような記憶があります。また、二ノ瀬から大常木谷を渡り余慶橋付近へ抜ける仕事道があったそうです。
東京都水道局の水源巡視路に組み込まれ、沢登りの方々がよく利用する大常木林道もこの登山地図には描かれていません。
古地図一冊でかなり楽しめる
立春が過ぎ、寒さも徐々に和らいできました。太陽が出ていれば汗ばむような日もあります。そろそろ砂金の初掘りへと思うのですが、2021年1月7日非常事態宣言が発出され、昨年同様にお出かけできなくなってしまいました。
人に会わない川なら良いかな?と思わなくもないのですが、丹波山村のホームページで村長さんからのメッセージに「やむを得ない事情がある場合を除きまして、丹波山村への来村を自粛していただくようお願い申し上げます。」と書かれているのを読んでしまったら、行くのも気が引けてしまいます。
そんな中、偶然目にした昭和34年の登山地図一枚で2,3日楽しむ事ができました。
新型コロナウイルスのワクチン接種が進み、気兼ねなく外出できるようになるのを心待ちにしています。