古地図

緊急事態宣言が解除されました。が、しかし、ぼくが住んでいるのは外出自粛要請対象地域なので・・・残念ながらまだ出かける事ができません。

そんな時は地図ですね。地図を見つつ、外出ができるようになった時、どこへ出かけようかと検討するのも楽しいです。国土地理院の「地図・空中写真・地理調査」のページには、様々な地図閲覧サービスへのリンクが集まっています。

古地図

先日ヤフオクを眺めていたら、明治、大正、昭和初期に発行された古い地形図を売っている方がけっこういらっしゃいました。

ぼくが個人的に興味を持っている国道411号線から三ノ瀬へと伸びる「林道一ノ瀬線」が開通する以前の付近の様子が知りたくて、買ってみようかな?と悩んでいるうちに、落札されてしまいました。

また出品されるでしょ。と思いましたが、よく考えれば今の時代、古い地図をオンラインで閲覧可能となっている場合が多く、印刷された地形図が必要ならば、国土地理院から謄本交付を受ける事も可能です。

丹波 / 5万分の一 / 明治43年物 / 柾判 /白黒印刷 ならば
交付手数料500円 / 送料120円。総額620円になります。

ヤフオクで売られている古い地形図には、利用した登山者が歩いたルートが記入されていたりと、当時の登山道を想像できる面白い付加価値があるのですが、とりあえずオンラインで閲覧可能な丹波山村周辺の古い地図を探してネットを彷徨ってみました。

興味があるのは、以下の2点

    • 林道一ノ瀬線開通以前の付近の道の様子
    • 古い鉱山の具体的な場所

林道一ノ瀬線

林道 一ノ瀬線は、国道411号線から分岐し、二ノ瀬、三ノ瀬、笠取山登り口である作場平、犬切峠、一之瀬高橋を通りまた国道411号線に合流する16Kmほどの林道。

2019年秋の台風19号の影響で、2020年06月現在、東側ルートは通行止め(大常木沢付近で大規模崩落)になっています(東京都水道局 林道一ノ瀬線 通行止め区間 案内図)

この林道が開通する以前、一之瀬高橋集落から他の町へ行くには、犬切峠を越える道しか無く、大変な苦労があったと聞いています。

この林道一ノ瀬線が昭和何年に開通したのか、具体的な日付を探しきれず不明なのですが、林道一ノ瀬線の施工年度は、昭和34年~昭和56年だそうです。

大体の年代がわかった所で、ヤフオクに出品されている古地図を拡大し、林道一ノ瀬線が書かれているかどうかをよーく眺めてみると・・・

昭和44年版 書かれていない
昭和51年版 書かれている

下の画像は、昭和44年発行の大常木、龍喰付近の地形図です。見慣れた林道一ノ瀬線が書かれていないのが判ると思います。
つまり、昭和44年以前の地形図を手に入れれば良い事がわかりました。

ところで、現在の国道411号線が現在の位置で開通したのは昭和34年です。なので、それ以前の地図を入手すれば、柳沢川右岸を通り藤尾橋で左岸へ渡る古い青梅街道の様子も見られそうです。

他にも二ノ瀬の人々が丹波山村へ抜けるのに利用していたという道に興味があるのですが、残念ながら地図には書かれていませんでした。二ノ瀬から藤尾山中腹をトラバースして大常木を渡り丹波山村へ至る道があるはずなのですが・・・

このような生活道路(?)は、古い登山ガイドを参考にしたほうがいいのかもしれませんね。

周辺の鉱山

林道一ノ瀬線開通前の一之瀬川の様子を地図で眺めて楽しんだので、次は、周辺の鉱山に注目してみます。

丹波山村周辺周辺には、いくつかの鉱山があります。しかし、古い時代に掘られた鉱山ばかりで、具体的な位置をはっきりと記録している資料は多くはありません。

日本鉱産誌を開いても、丹波山村に近い鉱山は「鈴庫鉱山」しか載っていません。

ここで古地図の出番です。

山梨県立図書館のデジタルアーカイブに「山梨全図」が資料として載っています。
その中から 大正13年 / 1924年の山梨全図を見てみましょう。

いくつか鉱山のマークがあります。

No.1は、言わずと知れた黒川金山
No.2は、玉宮の北ですから鈴庫鉱山
No.3は、何鉱山でしょう?

一之瀬川と高橋川に挟まれた地域。それも尾根、もしくは山の中腹に印があるように見えます。

岩科小一郞「大菩薩連嶺」P.61 黒川金山より引用

一ノ瀬の前金場に一ノ瀬鉱山があり、ここに武田時代に採鉱された旧坑が二十余り残存していた。明治になって新たに採掘が始まり、坑道七つを掘ったが、母岩硬質で費用おびただしく収支つぐわぬゆえに、百万分の二十二という優秀な含有量をもつ金鉱であったが、大正初期に廃坑にされ今は引き継ぐ人はいない。

泉 昌彦「信玄の黄金遺跡と埋蔵金」P.68 イシヤスド金山沢より引用

「わしらが、まだ子供の頃には、金山尾根には崩れかけた間歩 (まぶ)のあとが残っていた。近所の子供たちと、光る石をひろいに連れだって登ったものだ」

部落の古老たちの記憶からみて、イシヤスド山の間歩あとは、近代にも掘りかえしたものであろう。

実は以前、石保戸山の金山尾根を訪れた事があります。ただの低山ハイキングになってしまい、間歩(坑道)を見つけられませんでした。

No.3の鉱山印は、何鉱山なのか?

時代的には、一ノ瀬金山。

位置的には、石保戸金山。

どちらもぼくは見学できていないのでなんとも言えないのですが、今回、古地図で遊んでみた結果、もう一度石保戸金山尾根へ行ってみたくなりました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)